■ 化学物質過敏症になったこと(経験談)

すなおコーチングのNAOKOです。

私は、静岡県在住時に化学物質過敏症を発症しました。

湧き水に恵まれ、田んぼや畑の広がる、自然豊かな地域でした。

 

その地域に住んでいた7年の間に私は二度の妊娠・出産を経験して特に身体が敏感で消耗しやすい状態だったところに、自宅付近の空気中に漂う農薬やリフォームに使用された塗料や接着剤などの化学物質の影響が強く出て化学物質過敏症になったのではないかと考えています。

 

(微量でも様々な種類の化学物質に対して反応するようになってしまったため、当初の病気の発症原因を具体的に特定し証明することは難しく、結果的に振り返って考えてみて上記の事が原因だったのだろうと認識しています)。

振り返ってみれば、その地域に引っ越しした当初からなぜか微熱が繰り返し出ていました。じきに妊娠したために微熱については妊娠中のホルモン変化のためだろうと思っていましたが、その後、何年間も微熱や高熱が度々出るようになり、ひどいだるさを感じることも増えるなど体調に異常を感じていました。二人目の子を産んだ後には、慢性的なだるさや咳に悩み、なんとか乳幼児だった娘の育児と幼稚園児だった息子の子育てをしていました。折に触れて病院で検査をしていましたが病名や要因がわかりませんでした。

もともと私は子供のころからアレルギー体質で身体はあまり丈夫ではなかったこともあって「産後の肥立ちが悪いため、育児の疲れ」だろう医師も私も考えていて、「自律神経失調症」「慢性疲労症候群」「不定愁訴」などだろうという認識でした。

 

病院の待合室で待つ間にも非常に身体が辛くなり、薬を飲むと気持ちが悪くなったりお腹の調子を壊したりするので、代替療法を模索しました。主に漢方薬、マクロビオティック、そして東条百合子さんの自然療法の本を頼りに食事やお手当法で身体の不調に対応しようと努力をしていました。お手当法には本当に助けられました。高熱時には解熱剤を使って何度も解熱と発熱を繰り返すよりも、コンニャク湿布による肝腎脾の手当・豆腐湿布での熱冷まし・大根湯での発汗促進・梅醤番茶・足湯などのお手当法を施すことですっきりと高熱から回復することができました(漢方薬も役に立ちました)。

 

体質改善のための努力をすることでアレルギー性鼻炎の症状は軽減されましたが、それでも悪化し続ける体調に悩み苦しんでいました。その地域に住んで7年目の秋ごろ、激しい咳、ひどいだるさ・発熱などで体力を消耗して限界を感じました。幼稚園へ子供のお迎えに行くこともままならず、一ヵ月間のほとんどを床に臥せって、最小限の家事・育児をギリギリの状態でしている状況に途方に暮れていたある時、「これは、化学物質過敏症だ」と思い至りました。化学物質に焦点を当てて振り返ってみると、様々な出来事と要因が合致し、これまでの体調不良の波や突然の体調の異変について納得がいきました。

 

 

 実はその前年に、私の友人は化学物質過敏症となり転地療法のために引っ越して行ったということがあり、化学物質過敏症についてのパンフレットも読んでいました。かつて何度か彼女の悩みや苦しみや生活の困難さを聴いていたのですが、まさか私も同じ難しい病気に罹っていると思うと大変ショックでした。ですが、同時に原因は周囲の化学物質だというこれまで気が付いてなかった要因がわかり、これで困惑と絶望の日々から脱することができるという希望も湧いてきました。

 

インターネットで調べると、この病気を診断できる医療機関は少なく、小さな子供たちを連れて東京の専門医へ受診することは体力的にも家計にも負担になると思い断念しました。「もしもこれから対策をしてもダメだったらその時には専門医を受診しよう」と思っていました(今振り返れば、その時期に一度は診断を受けに行ってもよかったかもしれないと思います。しかし当時は遠くへ受診に向かうだけの決断をするには気力が足りなくて決められなかった、というのが実情でした)。

 

その代わりとして漢方薬や鍼灸での治療にそれまでよりも頻繁に通いました。じきに冬になり、冬の間は近隣の農地への農薬散布はなかったため症状はやや落ち着きました。しかし、初春になって隣の農地に農薬が撒かれた日にはひどい症状がぶり返したことから、やはり化学物質過敏症があるのだと確信しました。

 

静岡の田舎は自然が豊富で、心温かい方々に囲まれ、のびのびと子育てでき、野菜も魚も新鮮で好きな面もたくさんありましたが、私は農薬と殺虫剤に特に激しく反応するようになってしまうと農地の付近での暮らしは苦しいものとなってしまいました。住む場所を変えることが必要でしたが、ちょうどその前年から夫は会社に地元の事業所へ異動したいという希望を出していました(私の体調不良が理由の一つでした)。そして理解のある上司が奔走してくださったため、運よくその年の4月のタイミングでの転勤が実現し、住む場所を変えることができました。切羽詰まっていたタイミングで名古屋の住宅地に移り住むことができ、困った時に実家のサポートも受けられるようになったことは大変幸運でした。

 

その後、アレルギー科兼漢方内科の現在の主治医に出会い、そおよそ7年間をかけて食事・漢方薬・体力作り・休息をベースとした治療に励み、体力も症状もかなり回復しました。

現在は煙草の煙、殺虫剤、香料、接着剤、塗料、消毒液などの臭いにマスクなしで高濃度でさらされると未だに発作が出ます。完治はしていませんが、工夫と周囲の協力により寝込むことなく、色々なことへの好奇心を取り戻して年々より活発に生活を送ることができています。



■ ターニングポイント

 

実は、最も苦しかった頃の症状について、記憶がぼんやりしていてなかなか上手く言葉にできません。

(毎日が大変すぎたこと、発作のために頭がぼうっとしていたために記憶が薄いのかもしれませんし、思い出したくないという気持ちもあるのかもしれません。それに、症状を羅列するだけではその苦しさの本質を表現できず、闘病の経験を書くのは難しいことだと感じています。)


不思議なことに思い出すのは、心が動いたターニングポイントとその後の日々にしたことばかりです。


何日も寝込んでいたある晩、苦しい時間が続いて諦めるような絶望的な気持ちになりました。夜中に空っぽの虚しい気持ちでまだ赤ちゃんだった娘と添い寝しているうちに、ふとムクムクと強い気持が湧いてきました。「将来この子が赤ちゃんを産んだらその時には私が支えてあげなくては。その時にそれなりに健やかなおばあちゃんでいないと。生きなくちゃ。そのためにも治る!」そう心に誓い、絶望感から抜け出しました。

 

そして、鍼灸院に久しぶりに通い始めました。脈診を始めた瞬間、鍼灸師さんの表情がハッと変わりました。「これは、あなたの年齢の脈じゃないですよ。どうしちゃったの。つらいでしょう」と言われました。その言葉が心に響きました。私は、それまでずっと味わってきた辛さをそのまま認められたと感じて、涙が出ました。「身体が辛くて、でもなんとか起きて、がんばっているのに。最小限の家事や育児もこなせなかったりして、夫にたくさん頼っているから、第三者が私たち夫婦を見たらきっと私はナマケモノのダメな母で妻だと、きっとそう思われる。くやしい。人一倍がんばってるのに ・・・」と本音を話して泣いて、鍼灸師さんに聴いてもらって心がなぐさめられたことをよく覚えています。

 

当時も今も思うのは、世の中には当時の私よりも、もっとずっと苦しい病や障碍と共に生きている方が大勢いらっしゃること。化学物質過敏症についても、私が最悪の状態だった時でも、もっとずっと重症の方や電磁波過敏症も併発されている方のご経験と比べたら、まだまだ序の口だと思います。頭痛がして咳き込みながらもなんとか外出も買い物もしていましたし、電磁波過敏症も少しピリピリと感じる程度でしたので、「私はこの病気について経験して知っています。理解できますよ」と言い切れる立場ではないかもしれない、と自覚しています。

それでも、この社会から隠れがちな環境病の為になにか役に立ちたい、生の声を誰かが聴き続けることで更に何か次の展開につなぐことができるかもしれないと思います。そのために何かをしたいという気持ちが強くなりました。そして、傾聴・コーチングのプロフェッショナルとしての有料セッションにピア・サービスという仲間としての対話の時間をお付けするという形の事業を始めることに致しました。


心が動いて、次の展開がスタートする「ターニングポイント」を見出し、その難しい時期を生きやすくなるように対話でのサポートを必要としている方へ届けることが私のミッションです。